犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日
2005年3月27日 読書
柳田邦男氏自身の息子が自殺し、数日の脳死状態を経て死にいたった、その記録。
図書館の本棚を見て、背表紙の柳田邦男、の名前と、私の日頃の読書傾向である、心身の健康ジャンル「脳死」のふた言で借りることに。
帰宅して裏表紙の文章を読み、自殺からの脳死と知る。
果たしてその内容に落涙。
神経症から自殺にいたった息子がこのままだと脳死状態になる。遠からず肉体の死も訪れる。その時に生前の彼の言質を思いだし、丹念に考察し、せめて最善の死にしてやろうと、腎臓を提供する。
息子氏は生前、心を病みつつも「自分が誰の記憶にも残らず、なんの役にも立たずに死ぬ」ことを恐れ、骨髄バンクにドナーとして登録していた。決して、死にたい死にたいからの死ではなく、生きようとしたが病に負け死を選んでしまった。
息子氏は他人のためでなく、自分が自分であるために犠牲となりたかった。
偽善と善のあいのこで、なにか人のためにというのは少なからずこの問題を孕んでいる。他人にしてやって気持ちがいいから。
それでも結果的に善される者も喜び、与えた自分も喜べるなら、偽善も善も定義づける必要はない。
作中にでてくる息子氏の思考の面倒臭さも、決して他人事とは思えない自分。そしてたぶん、結構多くの人がこれくらい煩悶しつつ生きていることだろう。それが病的になって死んでしまった流れもわからないではない。
彼は自己犠牲に憧れを抱き、骨髄の提供はままならなかったが、腎臓の提供は思いつかず、自分の意志を表現できなくなってから、家族の考えで、晴れて(といってはなんだが)自己犠牲たりえた。
家族が勝手に解釈して、と、いうのも一面の見方ではあるが、自殺が病気の延長線上にあった以上、正常な判断能力を失っていたという可能性も併せ、彼自身の素直な気持ちを考察すれば、闘病中は本人が気づけなかった真意を汲み取ってやるというのは、精一杯の気持ちなのではないだろうか。
1か0かではなく、情にもきちんと視点を置いて脳死や臓器提供に考察がされていて、うなずくばかり。
私が現在考え中の骨髄バンクドナーに登録するか否かについて、タイミング良く一石を投じてくれた。
たまたま読んだのは思し召しか。
図書館の本棚を見て、背表紙の柳田邦男、の名前と、私の日頃の読書傾向である、心身の健康ジャンル「脳死」のふた言で借りることに。
帰宅して裏表紙の文章を読み、自殺からの脳死と知る。
果たしてその内容に落涙。
神経症から自殺にいたった息子がこのままだと脳死状態になる。遠からず肉体の死も訪れる。その時に生前の彼の言質を思いだし、丹念に考察し、せめて最善の死にしてやろうと、腎臓を提供する。
息子氏は生前、心を病みつつも「自分が誰の記憶にも残らず、なんの役にも立たずに死ぬ」ことを恐れ、骨髄バンクにドナーとして登録していた。決して、死にたい死にたいからの死ではなく、生きようとしたが病に負け死を選んでしまった。
息子氏は他人のためでなく、自分が自分であるために犠牲となりたかった。
偽善と善のあいのこで、なにか人のためにというのは少なからずこの問題を孕んでいる。他人にしてやって気持ちがいいから。
それでも結果的に善される者も喜び、与えた自分も喜べるなら、偽善も善も定義づける必要はない。
作中にでてくる息子氏の思考の面倒臭さも、決して他人事とは思えない自分。そしてたぶん、結構多くの人がこれくらい煩悶しつつ生きていることだろう。それが病的になって死んでしまった流れもわからないではない。
彼は自己犠牲に憧れを抱き、骨髄の提供はままならなかったが、腎臓の提供は思いつかず、自分の意志を表現できなくなってから、家族の考えで、晴れて(といってはなんだが)自己犠牲たりえた。
家族が勝手に解釈して、と、いうのも一面の見方ではあるが、自殺が病気の延長線上にあった以上、正常な判断能力を失っていたという可能性も併せ、彼自身の素直な気持ちを考察すれば、闘病中は本人が気づけなかった真意を汲み取ってやるというのは、精一杯の気持ちなのではないだろうか。
1か0かではなく、情にもきちんと視点を置いて脳死や臓器提供に考察がされていて、うなずくばかり。
私が現在考え中の骨髄バンクドナーに登録するか否かについて、タイミング良く一石を投じてくれた。
たまたま読んだのは思し召しか。
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